
熱海。海の眺めと早咲きの桜
旅に出てばかりいる。なぜ、旅にばかり出ているのか自分でもよく分からない。理由は挙げようと思えばいくつか挙げることはできるけれど、でもきっとそれは重要ではなくて、旅に出る必要があることだけは、確信がある。

「生島足島神社」と別所温泉「大師湯」
年明けに、長野の上田と別所温泉へと行き、日本のど真ん中に位置するという生島足島神社へと参拝をし、2月には熱海のオーシャンビューをひたすら眺め、そして、いまは山形の秘境・肘折温泉の湯治宿にいる。大蔵村にある肘折は有数の豪雪地帯でもあるが、今年は例年稀に見る雪の少なさだという。人間の業による気候変動が自然界を侵食している。それでも、肘折では自分の背丈を優に超える高さの雪が一面に広がっていて、川のせせらぎだけが響き渡る静謐な暮らしが守られていた。湯治宿には、長期滞在者のために客用の炊事場が設けられている。医療が発達した現代でも、私は、湯治による体調や病気の平癒を信じているところがある。人体自体がいまだ未知数なのであれば、自然治癒力ほど理解を超えたものはない。

新庄駅へと向かう車窓
湯治の歴史は長く、最も古いとされる記載は約1300年前、『風土記』にも登場しているそうだ。聖徳太子が現在の道後温泉を訪ねていたということは、今回調べる中で初めて知った。かつては、「禊」にも温泉は使われていたという。傷を治し、疲れをほどき、罪や穢れを流し去る。肘折温泉も開湯から1200年の歴史を誇る。新庄駅からマイクロバスに揺られて、約1時間。穏やかな山々に囲まれた山景の、その何者にも侵されていない凛とした風情に安堵を覚えた。

雪に囲まれたカルデラ温泉館の露天風呂
かつて、人々が旅に出る目的は、信仰による参拝と、山岳信仰に基づく登拝が中心だったそうだ。信仰という感覚は薄れつつあるのかもしれないが、結局いまだ、本来の旅の目的自体は変わらないように思える。「八百万の神」と言うと大袈裟に響くが、近年では「アニミズム」への関心も高まっているように思う。人工物によるノイズのない場所へと離れることで、電磁波から身を遮断することで、クリアになってくることがある。

共同浴場「上の湯」。浴場内にはお地蔵様が鎮座していた
都市では当たり前に広告が目の前をふさいで、見渡すかぎりに情報の波が広がっている。スマートフォンなどを持たずに生きてみたいと思うけれど、その程度の抵抗は些細なもののような気もする。現代を生きるためには癒しではなく、抵抗が必要だと思う。私にとっての湯治は、社会への態度としてのひとつの抵抗でもある。資本主義から逃れたいけれど、まだまだ未熟で完全には逃れられそうもない。湯に浸かり、雪に包まれた山並みを眺めることで私は自分の時間を自分へと取り戻すための抵抗をしている。近代の固定観念は年々、時代とともに揺らぎつつある。過程の最中にいる間は苦しい、もどかしい、何一つ変わっていけないように思える。旧正月が明けた頃、総選挙で自民党政権がまた圧勝をした。

肘折温泉郷の風景。雪解け水がキラキラと反射していた
朝早く、目が覚めると雨音がしていて、窓から外を見てみると、そこかしこの屋根から雪解けのしずくがぽつぽつと雨を降らせていた。まちも山も川も、たくさんの積もった雪とともに太陽に照らされ、光を携え、その下でそっと、新たな春の訪れを心待ちにしているようだった。
※写真はすべて筆者撮影
ヤマザキ・ムツミ
ライターやデザイナー業のほか、映画の上映企画など映画関連の仕事に取り組みつつ暮らしている。東京生活を経て、京都→和歌山→熱海へと移住。現在は再び東京在住。