コラム

街を歩けばアートに出会う
美術探偵の“街中あーと”めぐり  第23回

文・写真=勅使河原 純

屋根の上の別天地(1)

朝倉文夫「浴光」(1921)

朝倉文夫「浴光」(1921)

 

朝倉文夫「浴光」(1921)

朝倉文夫「浴光」(1921)

東京・谷中といえば、閑静な住宅街としてひろく知られる。落ち着いた家並みがつづく日暮里駅まえ西口坂の辺りを、のんびりと散策して歩く人はいまも昔も少なくあるまい。名物「谷中せんべい」を通り越し、ふと前方を見上げると屋根の上に何かしら予期せぬものがあるようで、人々の視線は自然とそちらへ向かっていく。誰かがそこにしゃがみ込み、まるで優雅に湯浴みでもしているかのようだった。「東京美術学校」にもほど近い文化アート地域だったとはいえ、何せ大正13(1924)年のこと。次の瞬間、それが全身丸裸の女性像だと気づいたときの人々の驚きには、想像するに余りあるものがあった。

吸い寄せられるように建物へと近づいていく。41歳の彫刻家・朝倉文夫はこの年、台東区谷中に最初の仕事場(後の『朝倉彫塑館』)を建てたばかりである。和魂洋才とでもいうのだろうか。アトリエは「東洋のロダン」と呼ばれたこの家の主らしい、お洒落なコンクリート造のパリ風でありながら、住まいは一転して池をとりかこむ木造の純和風である。屋根には四角い立派な台座が据えつけられ、どこからでも眺められるようになっていた。だが残念なことに、作家自身が強く望んでいたにも関わらず、当時この仕事場はまだ一般公開されてはいなかった。従って人々は、「浴光」と名づけられた裸婦を看板代りに屋上へ設置した彫刻家の心意気を、ただ遠くから見守っている他はなかった。それにしても当時これほど手の込んだアトリエ兼住居を建ち上げるとは、すでに代表作「墓守」を制作し終えていたとはいえ、絶大な人気と自信を手に入れた超売れっ子作家の面目躍如たるものがあろう。

朝倉文夫は明治16(1883)年、大分県大野郡池田村(現豊後大野市)に生まれている。明治35(1902)年竹田中学校を中退して上京し、翌年東京美術学校彫刻科に入学する。以来面白いように、数々の展覧会で受賞を重ねていった。ちょっとしたアルバイトのつもりではじめた輸出用の動物原型(いわゆるハマモノ)の作成でも、たちまち大当たりする。学生なら一ヶ月の生活費が十五円もあれば充分に賄えた時代に、いきなり「収入は毎月六十円から三百円という豪勢なもの」(『私の履歴書』昭和58年)へと転じていったのだ。
明治41(1908)年には、第2回文展に男性裸体像「闇」を出品し、2等賞を獲得する。朝倉自身の言葉によればロマンチックな、主観的かつ個性的な佇まいの熟成を目指したものである。この年にはロダンから直接教えを受けた荻原守衛が、フランスから帰っている。「坑夫」、「女」などの瑞々しい傑作で、ロダン芸術の真髄を直接わが国へと伝えたのだ。さらに岩村透の批評的言動にも刺激されたものか、朝倉は明治43(1910)年の第4回文展に「墓守」を送り、再び第2等賞に輝いている。作品について作家自身はこう述べている。
「墓守」を作ったとき、私は純客観の立場にいた。すると墓守のおじいさんが現れるように出来て実に制作が気持ちよくはかどった。純客観は(近隣に住んでいた)正岡子規が論じていたが、私もこれでなくてはいけないということに気づいた。そしてその後私は主観と訣別して客観に徹する態度に一変した。(前掲書)
「墓守」は、わが国近代彫刻の金字塔であると共に、作者自身の立場を大きく変えていく運命の起点ともなる。フランスに留学せずとも、粗い肉付けや表面の仕上がりによって、守衛の試みや高村光太郎の論考にさえ対抗し得る、アカデミックな趣ヘと到達することは充分に可能だと見事に実証してみせたからだ。

朝倉彫塑館・日本間

朝倉彫塑館・日本間

勅使河原 純
美術評論家。1948年岐阜県出身。世田谷美術館で学芸業務のかたわら、美術評論活動をスタート。2009年4月、JR三鷹駅前に美術評論事務所「JT-ART-OFFICE」を設立、独立する。執筆・講演を通じ「美術の面白さをひろく伝え、アートライフの充実をめざす」活動を展開中。