文=中野 中
(54・最終回)素晴らしき絵とともに
去る5月7日、『美術屋・百兵衛ONLINE』を休刊することになった、との突然の連絡にビックリし、しばしボンヤリとしていた。
落ち着こうと、コーヒー豆を挽き漏紙でドリップしているうちに、自分の連載も終了するのだ、と。コーヒーカップを口に運びながら、一抹の寂しさに襲われた。

美のことごと①が掲載された『美術屋・百兵衛』No.23(2012年秋号)
思い返せば、季刊雑誌『美術屋・百兵衛』の創刊号以来、休むことなく毎号何や彼や書かせていただいてきた。何本もの数回連載のシリーズを繰り返しながら「美のことごと」シリーズに至り、その何回目からかONLINEになって、ついに最終回を迎えたわけだ。
ところで何を書けばラストランが完結するのだろうか。否、所詮“完結”などあるはずがない。
いつものように、老いの胸中に去来するアレコレを綴って近況報告とさせていただくことにしたい。
わたしの仕事は絵を観ること、とにかく現場へ足を運んでナマで自分の眼で観ること。当然、美術館や街の画廊へ出かけることになる。定期的に通院はしているが、幸い体調は良く、体調が良ければ意欲も湧き、気持ちは前向きになる。
とはいっても、老化ゆえに体力は右肩下がりとなって、予定も控え目にしているが、それさえも消化できず、下廻ってしまうことも歯痒くはあるが、絵を観、作者とアレコレ語り合えることを喜んで、ストレスにはしない。
それが長持ちさせるコツ?と心得る。

街の画廊のイメージ(AI生成)
私は企画展をいくつかやっている。その一つに、「モノとコトのHAZAMA」がある。
──絵画に限らず、抽象はもとより写実であれ具象作品であれ、表現されたその内にある抽象性が、胸中に底流する普遍的なナニゴトかを示唆、あるいは暗示しているから、魅力を孕むのであろう。
それが感得されてこそ人生に触れてくるのであり、波紋を呼び起こすのだ。──
と、企画意図についてコメントしている。
右の「モノ」と「コト」のHAZAMA(間)と相似性あるいは拡大解釈として、絵画作品と向き合うときの自身の姿勢・心得として「距離感」を意識するようにしている。そこでは、表現意識とモティフ・作家・観者との相互間に生まれる現実的な時間・空間、それに心情・精神的な「距離感」が大きなポイントとなる。
あくまで、表現意識の一要素としての「距離感」によって、モティフの存在感がより確かになり、それが作家独自の視点となり、個性となり、人生観の表現となる。
そうやって生まれた作品が観者と対峙し、作品を通して作家との対話に進み、さらに互いの人生観までが交叉し、撹拌される。
共感・反撥・疑問のいずれにせよ、そこには作品が生きているのみならず、作家も観者も生きて、確かな今にいる確信をもつ。
アートの意義はそこにあろう。
〈確かな今〉をさらに豊かにするのは何か。それは、十分に自立している作品が纏っている〈美しさ〉であろう。では〈美〉とは何か。辞典を借りれば、
〔哲〕知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの。〈快〉が生理的・個人的・偶然的・主観的であるのに対して、〈美〉は個人的利害関心から一応解放され、より普遍的・必然的・客観的・社会的である。
……なかなかに難解であり、頭で考えれば泥沼に嵌まって抜き差しならなくなっていく。
故に、わたしは〈美〉は真・善・生命の象徴と措定している。
アートは何と素晴らしきことか。

頭脳が痺れてきた。
ベランダへ出て青空を仰ぎ、大きく深呼吸をする。
時刻は6時半に近い。ちょうど日没時間を迎えた太陽は、西空を茜色に染めて沈もうとしている。頭を回らせて東空を見やれば、ほぼまん丸のお月様が浮かんでいる。
最後まで、ややこしい話になってしまった。
でも、明日もまた画廊巡りを楽しみます。
長い間のおつき合い、ありがとうございました。御礼申し上げます。
中野 中
美術評論家/長野県生まれ。明治大学商学部卒業。
月刊誌「日本美術」「美術評論」、旬刊紙「新美術新聞」の編集長を経てフリーに。著書に「燃える喬木−千代倉桜舟」「なかのなかまで」「巨匠たちのふくわらひ−46人の美の物語」「なかのなかの〈眼〉」「名画と出会う美術館」(全10巻;共著)等の他、展覧会企画・プロデュースなど。