
ある日の熱海・糸川で咲き誇るブーゲンビリア
『おてんとうさまがほしい』という映画がある。長く映画界で照明技師として働いてきた渡辺生さんが、自らのこと、そしてアルツハイマー病を患う妻に向き合った日々を記録したエッセイ的映画で、95年に公開されたこの映画に出会ったのは2年ほど前に東京で行われた特集上映「日々をつなぐ」でのことだった。そして、その副読本として発行された『老いて生きる』をようやく読むことが叶った。

『老いて生きる~「映画おてんとうさまがほしい」を語る~』(著者:貞末麻哉子/凱風社刊)
世間的に中年期真っただ中におり、同世代の人たちはこぞって「もういい歳だから」と言う。でも「いい歳」とはなんのことだろうかと思う。若い頃のように無理が効かないと言うけれど、特に若い頃から無理をしてこなかったのであまりピンと来ない。若ぶっているわけではなく、生まれた瞬間からずっと老い続けているのだし、急に老いるわけでもない。性別で人を測ることができないように、一概に年齢で括れることも少ないように思う。ただ、年齢を知ったとたんの世間の目が確実に違うことは甚く実感していて、「老い」というのは世間によって植え付けられ、思い知らされ、負わされていくものなのだと思ってきている。

イヴォンヌ・レイナー特集チラシ
アメリカのダンサーで映画監督でもあるイヴォンヌ・レイナーの映画『マーダー・アンド・マーダー』を見たことも影響しているかもしれない。レイナーの自伝的とも言える私的な映画でもあり、60歳を過ぎてからのレズビアンへの目覚め、乳がんの手術、そして老いをめぐる思索的作品でもあって、大変興味深く見た。
『さよならはスローボールで』というアメリカ映画を見たこともあったかもしれない。慣れ親しんだ野球場の取り壊しが決まり、草野球を長年楽しんできたおじさんたちの最後の試合を通して、見事に人生をも映し出した作品だ。

さよならはスローボールで』東京・早稲田松竹にて
老いることがまるで残念なことであるかのように思わされるのはどうしてだろう。老害という恐ろしい言葉まで広まって。人生のステージ(という言い方自体も好きではないけど)がどうとかそんな話はさておいて、老いるとはつまり生きることであるということを忘れたくない。生きることが否定されることは、社会的な殺人であると思う。
たいして見せ場もない盛り上がりもない、注目もされていない試合を続けながら、日が暮れて夜になり、野球場の照明も付かず、ボールが見えなくなっても、それでも「終わりたくない」と思う。それは重ねてきた時間があるからこそである。そのことは終わりを迎えたとしても消えてなくならない。
アルツハイマーによって、自分が誰かも、相手が誰か分からなくなっても、生きている。覚えているとかいないとか、どっちが勝ったとか負けたとか、早い球を投げるとかどうとか、細かいことが気にならなくなっていくのは、単にズボラになっただけではなくて、本当に大切なことが何か、はっきりと分かっているから。それが人が生きていくということだと思う。でもそれはもちろん、終わりがあるからこそ、過ぎていくからこそ、老いていけるからこそ。

北海道行きの飛行機上空(で、これを書いている)
冊子時代の『美術屋・百兵衛』での連載を含め振り返ると実に10年以上の月日が経っていた。本当に自由に書かせていただき、このような機会を与えてもらえたことに、この場を借りて深く感謝を伝えたい。
続いていくことと終わっていくことは同じようにも思えるし、日々とともに思考も続いていく。ゆえに、それぞれの中に絶え間なくアートは存在している。それをかたちとするかしないかはそれぞれで。だからこそ生きているかぎり、アートは終わることなく続いていくし、そのことがなによりも楽しい。
※写真はすべて筆者撮影
ヤマザキ・ムツミ
ライターやデザイナー業のほか、映画の上映企画など映画関連の仕事に取り組みつつ暮らしている。東京生活を経て、京都→和歌山→熱海へと移住。現在は再び東京在住。