
文・写真=勅使河原 純
屋根の上の別天地(2)

「朝倉彫塑館」入口
話題を現在の「朝倉彫塑館」へと戻そう。建物の門柱のまえに立ってなかを覗くと、コンクリート造りのアトリエ外壁が、白い氷壁のようにそそり立っている。高い絶壁を下から目で追っていくと、屋上から誰かが手を伸ばしてこちらへ迫ってくるではないか。いかにも来館者の方へ、何か合図でも送っているかのようである。思わず「危ない!」と声を上げそうになる。やがて落ち着きをとり戻し、よくよく眺めると、これまた朝倉文夫お得意の屋上彫刻であることが分る。いわば『浴光』の跡を継いだ屋上2世が、『砲丸』と題する陸上選手へと姿を変えて、はてタマをどこへ投げ飛ばそうかと思案しているといったところだ。

「朝倉彫塑館」屋上風景

「朝倉彫塑館」屋上風景
彫刻家・朝倉文夫(1883〜1964)は、東京美術学校を卒業して間もない明治40(1907)年に、学校からほど近い谷中の地に住まいを定めている。その後、普請道楽といってもいいほど繰り返し、10回前後、増改築を繰り返している。彼自身の好みによって、後に「朝倉彫塑館」と称されるユニークな建築のほぼ全貌が見えてきたのは、昭和10(1935)年のころであった。この壮大な砦のなかで、『墓守』を含む400体以上ともいわれる肖像彫刻の大部分がつくられたことは、想像に難くない。
だがそれらと相前後して、朝倉が無性に猫を可愛がり、多数を身辺近くに遊ばせて観察と制作を繰りかえしたことは、あまり知られていないようだ。彼は肖像制作の傍らで、類まれな動物彫刻家でもあったのである。
猫などは十九匹ばかりもいた事があった。猫を沢山飼うのに、一番困ることは、これまでいたのと、新しく飼う新米となかなかなじまないことであるがこれなども先輩と後輩との鼻面をかわるがわる撫でて双方の嗅覚を一時撹乱してやるのである。
そうすると彼等は同じ仲間の嗅いがするとみえて、決して火を吹いたり、引っ掻いたりしない。(『美の成果』1942年)
朝倉文夫は明治42(1909)年の第3回文展に、『吊るされた猫』(1909)を出品している。弧を描いて上に伸びる人の右手に、首根っこをつかまれた猫がだらしなく空中に吊り下げられた、きわめて特異な構成だ。フランス帰りの高村光太郎は「後ろの手と腕とが甚だしく堅い」と批判している。だが巧みさを欠いたのはむしろ猫の方で、これにもすぐさま「一寸面白ひにも拘わらず、この作に大きな価値が無いのは、深みが無いからだ」と手厳しい。

《吊るされた猫》(1909年)
それに続き「猫の後ろに動物が無いからだ。猫の背後に本当の生(ラ・ヰ)が無いからだ。此は、何処から来ている結果かと言へば、第一に作家の人格趣味が然らしめたものだと言ふより外に言い様が無い。其の次には技巧がまだ至らないのだ。
-中略-
この猫に堅実性(ソリヂテエ)が足らない。此が第一に作の深みを浅くしている。面(プレエン)が混乱してゐる。此がまた深みを失はせている。線が連続して居ない。此が気分の集中を妨げて居る」(『スバル』1910年)と、あれこれ散々である。
しかし朝倉はあえて反論せず、むしろロダンや光太郎から、最新の美意識みたいなものを積極的に学びとろうとさえする。主観主体主義の袋小路の先に、新たな自然主義の息吹きを敏感に感じとっていたのだろか。それとも彼の目にも、近代日本彫刻の歩んでいく地平が少しずつみえ始めたのだろうか。彼はこんな謎めいた言葉を残している。「近頃の多くの芸術家に見るように、何々主義とか何々派とかいうものに拠って、或いは自己の主張から出立して、製作に従事するのは、全く無意義なことである。芸術の本源は徹頭徹尾、自由な個性の表現でなければならぬ」(『彫塑余滴』1934年)

《タマ(好日)》(1930年)
勅使河原 純
美術評論家。1948年岐阜県出身。世田谷美術館で学芸業務のかたわら、美術評論活動をスタート。2009年4月、JR三鷹駅前に美術評論事務所「JT-ART-OFFICE」を設立、独立する。執筆・講演を通じ「美術の面白さをひろく伝え、アートライフの充実をめざす」活動を展開中。